心理・宗教

アドラー心理学と少林寺拳法

身体だけでなく心を鍛えることも目的としている少林寺拳法。
毎日の練習の前に必ず読み上げるものの1つに「聖句(せいく)」があり、ここで唱える内容とアドラー心理学の優劣性の話が非常に合ってくる。
*「嫌われる勇気」絶賛読み直し中

劣等感と劣等性

劣等感、という言葉がある。自分が人よりも劣っているのでは、という感情。
しかしアドラー心理学でいう劣等感は我々が通常使っている言葉と多少違う。

劣等感:対人関係の中で生まれた、主観的な「劣っている」という感情
劣等性:事実として何かが欠けていたり、劣っていたりすること

アドラー心理学においては、基本的に人の悩みは全て対人関係の悩みだ、と言われる。

これらはすべて他人と比べることによって起こる、主観的なものである。

優越性の追求も劣等感も病気ではなく、
   健康で正常な努力と成長への刺激である
—嫌われる勇気 kindle版 位置No.940

*優越性の追求:向上したいと願うこと、理想の状態を追求することである。

強調したいこととして、劣等感はあくまで主観的なものであり、そこにどのような意味づけや価値観を与えるか、で自分をいくらでも変えられる

他者との比較ではなく、自分がどう成長するかということに視点を置くことが大事、と述べられている。

劣等コンプレックス VS 優越コンプレックス

劣等感だけであれば問題なく、それは成長の礎となる。
しかし、これがコンプレックスへと変化していくと歪みを引き起こす。

劣等コンプレックス

劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のこと
—嫌われる勇気 kindle版 位置No.968

「過去に〇〇があった」だから「今⬜︎⬜︎ができない」。
昔、起こったあることがトラウマ → 私は幸せになれない
過去に〇〇を失敗した → 私はもうこれはできない

この因果律には一切ならない。すべて間違いであり、自分ができない理由を作り、目的に立ち向かう勇気がないだけ。

こうであれば変われる、これさえ違っていたら、、、
それもまた、変われる可能性を残しておくことで「自分は本当はこんなものじゃない」という自尊心を残しておきたいのだ。
それさえも無くなってしまったら自分の拠り所が無くなってしまうから

悲しいかな、これは非常にとっつきやすく、使いやすいからこそ、ここに逃げてしまう。
簡単に言えば言い訳。

過去も周りも関係なく、あなたが変わりたいのなら今ここから、過去は一切関係なく変われる。
その為の変わる勇気をつける。これがアドラーの唱えた理論であり、勇気づけの心理学と言われる所以である。

仏教と似ている、と言われる一部もこれだ。
過去は一切関係ない。あなたは今ここから幸せになれる。

たとえ性格のひねくれた人でも、犯罪者でも、殺人犯でも、誰一人もれなくこの今生きている人生で絶対に幸せになれる。
でもただ祈るだけではなくて、これだけのことをしましょうね、というのが仏教。

優しくもあり、厳しい

アドラー心理学の勇気づけも、仏教の諦観も、行動に起こすのは苦労が一緒にある。
それでも私たちは皆、変われる。前に進める。

これだからもう、どっちも大好きなんですよね。

優越コンプレックス

意味:何か別のものを持って自分の価値を上げようとすること。

ブランドや権威のある友人知人、過去の栄光、などによって自身の価値を上げようと試みる。
自信がないからこそ、過去の自慢話や上記などでしのぐしかなくなる。

劣等/優越コンプレックス、どちらを合わせも最たるものは不幸自慢。
不幸であることによって「特別」であろうとすること。
あなたに何がわかるものか、これほど私は不幸なのだ、だから変われないのだ、と。
他人からしたら実際に理解することは難しいのだから優しくするほかなくなるのだ。

わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある
—嫌われる勇気 kindle版 位置No.1080

これが続いてしまえば、一生幸せになることはできない。
この人は「不幸であること」で今の自分の状態を維持しているのだから。現状のわずかな幸せのために不幸に依存している。

ここから踏み出す勇気を持たねばならない。

コンプレックスの語源

complexとはまとめて折りたたまれた、という意味がある。
com = 複数(主に2つ)が1つに
   ex) combo, combi, communicate,
plex = 複数がまとめられた状態

劣等感とほぼ同意語で使われているが、複数の感情が混ざり合った状態の意味。感情複合、とも言われる。

誰とも競争せず、ただ前を向いて歩けば良い

いつぞやのヒットソングは大嫌いであるが、言ってしまえばオンリーワンであるのが我々だ。
全員が同じではないが、全員が対等である。だから他者と比べてその中で生まれる劣等感や劣等コンプレックスに縛られるのは無益なこと。

理想の自分、未来の自分に向けて、ただ今よりも前に進むこと。
ここに価値がある。

少林寺拳法の聖句

さて、ここまでアドラー心理学の劣等感や劣等コンプレックスについて述べた。
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係からくるものだ」と断言している。
他者との比較、客観的な視点、に縛られるから苦しむのだ、と。

どんな過去でも自分でも主観的な価値観を変えることで世界の見え方は変わるのだ。

少林寺拳法においても似たことが述べられている。

聖句(せいく)

己れこそ 己れの寄るべ 己れを措きて(おきて)誰に寄るべぞ
良く整えし己れこそ まこと得がたき寄るべなり
自ら悪をなさば自ら汚れ 自ら悪をなさざれば自らが浄し(きよし)
浄きも浄からざるも自らのことなり 他者(たのもの)に依りて浄むることを得ず

結手(少林寺拳法の気をつけの姿勢)でこれを読み上げる。他にも文言は多々あるのだが、聖句がまず一番最初だ。
一言で言えば、他者ではなく、自分を強く持ち育てることが人生の根幹になるのだ、と。

他者に惑わされることなく、自分の主観で意味づけをし、そこから前に進むことが幸せへの一歩なのだ。
己以外に頼れるものはない

いやいや、私はこの人がいるから強くあれる。生きていられる。
そんな声が聞こえてきそうだ。

果たしてそうだろうか?

その人のおかげで強くあることと、他者に依存することを履き違えていないだろうか?

他人を信じることと、無関心であることを履き違えていないだろうか?

人を助けることと、それを言い訳にして自分が動かないことはまるで違う。

*もちろん、自分をしっかり持って、さらに人のために頑張れる人もいる

 

学生時代のこの聖句も、嫌われる勇気のアドラー心理学も、ほとんどの人が「綺麗事だよね」と耳をかさなかった。
実践しようとは考えなかった。

だが、これらどちらにも、また、仏教にも同じ真理があるように感じる。

私自身が前に進むこと。対人関係ではなく、人と比べてではなく、自分がどれだけ成長できるか。
劣等感をコンプレックスではなく、成長の根源とすることを教えてもらえた気がした。

本日の学び

・劣等感は悪いことではない。成長のバネへとする
・少林寺拳法における聖句でも、己を寄るべとすることが大切
・綺麗事と思わず、自分が前へ進む勇気を持たせてくれるのがアドラー心理学