心理・宗教

アニメ”十二国記”と心理学

十二国記の第7話
「月の影 影の海 七章」

陽子の持っている水禺刀の鞘はサルの形を成し、本人の気持ちを惑わせる。
その陽子がこの回で楽俊(ねずみと人の半獣)を助けるのか否かの葛藤が、見ている者の心を震わせる。

サル
サル
お前が他人を助けたいなんて思うわけがない
命が惜しいだろう?逃げ出せ。逃げ出せ!!
陽子
陽子
知り合いが怪我をしていたら、助けたいと思うのが当たり前じゃないか
サル
サル
“人”ならな!お前は化け物だ。
陽子
陽子
やめろ!!!
サル
サル
戻ったってねずみは死んでいる、、、
追いすがっておいおい泣くか?良いじゃないか。そんなもんで少しでも罪の意識が軽くなるって言うのなら。
陽子
陽子
ねずみを、、、見つけたいんだ。
サル
サル
そしてトドメを!!!
陽子
陽子
違う!、、、、、命の恩人だった、、、、
それを見捨てて、、、それだけで、それだけで、、、、こんなに苦しいのに、、、
もし殺しでもしたら。。。。もし、あの時、殺してしまっていたら、、、
陽子
陽子
良かった。
殺さなくて、、  良かった。
サル
サル
っっっ!お!お前!おい!!!
ば、馬鹿かお前は!
あいつはお前を利用するために助けたんだぞ?善意で助けたわけじゃ、、、、
陽子
陽子
善意でなくても良かったんだ。
私を助けてくれたことには変わりはない。
サル
サル
っっはぁ!あいつはお前を信用させて!お前を利用して!そしてお前を裏切るんだ!
陽子
陽子
裏切られたって良いんだ。
裏切られたって、裏切った奴が卑怯になるだけだ!
サル
サル
お前も裏切らなきゃ生きていけないんだよ!
陽子
陽子
私は死なない。卑怯者にもならない!!
善意でなければ信じられないか?相手が優しくしてくれなければ、優しくしてはいけないのか?!!
そうではないだろう?私が相手を信じることと、相手が私を裏切ることとは、なんの関係もなかったんだ。
そうだ、私は1人だ。だから、私のことは私が決める!!
私は誰も優しくしてくれなくても、どんなに裏切られたって、誰も信じない卑怯者にはならない!
サル
サル
お前は死ぬんだ。家にも帰れず、誰からも振り向かれず。
騙されて、裏切られてー!!
陽子
陽子
世界も他人も関係ない。
私は優しくしたいからするんだ!信じたいから信じるんだ!!
サル
サル
お前は死ぬんだ!!
陽子
陽子
どけー!!私は楽俊のもとに、行くんだー!!!

課題の分離

強い。実に力強いセリフです。

特にこの部分↓↓↓

私が相手を信じることと、相手が私を裏切ることとは、なんの関係もなかったんだ。
世界も他人も関係ない。私は優しくしたいからするんだ!信じたいから信じるんだ!!

大好きな恋人相手にさえ、「たとえ嫌われても好きでいる!」みたいなことを本気で実行できる人なんてそうそういません。

実際、嫌われて何をしてもツバ吐かれたりストーカー扱いされたり誹謗中傷受けて、本当に同じ信念のままできます?私は無理です。
しかもこの陽子、裏切られたって裏切った奴が卑怯になるだけだ!って、、、、裏切った奴に対してコンニャロー!ってならんのですかね。仏ですよ。

しかし陽子のこのセリフは、アドラー心理学で言う「課題の分離」に他ならないのです。

相手がどう判断するか、どう評価するか、は相手の問題であり、「私の問題」ではない。
相手に好かれるためにどうするのか、ではなく、自分が自分の課題をクリアするために、どうあるか、といったものです。
*ものすごくざっくりと言えば

だからここでは、裏切り裏切られの中で、陽子は自分が信じたいから信じる、優しくしたいから優しくする、ということにたどり着いたわけです。

聞くとわかるけども、これ非常に難しい。だってどうしても人の目が気になりますもんね。
でもこれができると、芯を持って突き進むことができるようになります。

また、別の漫画でも似た信念を持っている者が

「僕がそうするべきだと思ってるからだ」
「だからぼくは人のためにやってるわけじゃない。自分のためにやってるんだ」
by 「ワールドトリガー」三雲修

自分は弱いけれども、周りからそう思われてることは知っていて、この信念だって自分のエゴだとわかっていて。
それでもなお貫く三雲修。彼の強さは現代男子に見習ってもらいたいくらい。

彼も同じく「自分がすべきこと/やりたいこと」をしようと動いている。
そこには他人は良くも悪くも関係ない。

小難しいことはなにもない。ただ自分がどう在りたいかということだけだ。

私が生きる世界

陽子がセリフの中でこうも言っています

「そうだ、私は1人だ。だから、私のことは私が決める!!」
「世界も他人も関係ない。
私は優しくしたいからするんだ!」

近いとは言えないけども、仏教に似た言葉があるんです。

独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)

仏説無量寿経の一説です。孤独の「独」がたくさん入っているのでネガティブな言葉に聞こえるかもしれません。
しかし、人は死ぬときは1人。金も家も地位も名誉もなにも持っていけない。

私の苦しみを、他人は「わかるよ」と言っていても、本当に心からわかってくれる人などいない。
それほどに難しい。

生きる間も死ぬ時も、ずっと我々は1人なんです。
ならば行くも去るも、すべて1人なんです。

ではその1人の間、周りに翻弄されて生きるのか、陽子のように見返りを求めるのではなく「ただ自分がそうしたいと思うから」人に何かをするのか。

行いは同じでもそこから生まれるものや心構えは大きく違いますね。

あ、ちなみにずっと1人だから自分のためだけに生きる、というのはまた違います。
それは別の仏教話の時にでも。

今回の学び

・自分がしたいということ、すべきと思うことをする心の強さ
・アドラー心理学の「課題の分離」を十二国記の陽子から学ぶ
・「私がやること」に世界も他人も関係ない