大学に通っていた頃、比較宗教学という授業を間に合わせでとっていたが、これが思いの外面白かった。
その先生の例えで言うと、キリスト教・仏教・イスラム教ではこのような違いがあるという。
ここに1つだけパン(食べ物/飲み物)がある場合、それをどう分けるか?
キリスト教:1人が持っていて、そこに100人いれば100等分。全員に平等に分ける。
イスラム教:持っているその人の物。アッラーの神が「あなたが持っていなさい」と渡したのだから他者に渡してはならない。
仏教:人から人へ何かを渡すと上下関係が生まれる。その為、同じように人に分けるにしても、必ず一度仏壇に捧げて、そこからわたす。一度「仏様の物」になることで上下関係をなくす。
何かを分け与えるにしても、これほどの解釈の差があるのか。面白い。
そもそも宗教とは
「宗」となる「教え」
いついかなる時もブレない考え
ここに道徳との違いがある
Contents
道徳と宗教
小学校の時の授業で道徳と言うものがあったと思う。
何かのお話を読み、どう思うか、どうしようか、などと人としての感性を磨くような内容ではなかっただろうか。
しかし、これが戦時中だったらどうだろう。
竹槍で米兵を突く練習をしていたあの時代、、、、(不毛なことをしていたものだ)
当時の道徳の授業は「鬼畜米兵。お国のために殺せ。お国に命を捧げるのだ」
それが「人(日本国民)としてすべきこと」なのだ。
欧米人が渋谷のスクランブル交差点を闊歩する昨今、いきなり殺したら、、、、
いや例え理由があっても殺してはダメなのだ。
これが道徳だ。
時代時代で考え方が変わってくるのだ。
宗教を怪しいと思うこと
「宗教を信仰していることが狂っている」という考えの人が多いだろう。
この固定観念の大きな要因の1つはオ〇ム真理教だ。
人々が、特に優秀な人がこぞって入信し、狂っていった。
もちろん、その前から宗教への偏見はあったものの、地下鉄サリン事件以降明白なものとなった。
ご存知の通り、アメリカでは大統領になった途端に教会へ通いだす、といった話も出るほどに宗教の重要さがみて取れる。
先ほどの宗教と道徳の話とも繋がり、「どんな時でもブレない生き方を示す」のが宗教である。それがないということは、人として疑わしいと思われてしまうのだ。
自分がどう生きるか、それを示すのが宗教。
「宀」は家を示し、家とは「生きる場」を表す。
生きる場を、生き方を「示して」くれるのが“宗教”である。
宗教の発祥と違い
キリスト教もイスラム教も、発祥はユダヤ教である。
これらはどれも砂漠地帯で生まれた。砂漠の中で道を間違える、迷う、ということは命取りとなる。
誰かが先導しなければならない。迷いがあってはならない。
こういったことから1人の指導者を支持する一神教が生まれたのである。
また、自然環境が厳しいこともあり、この時の神のイメージは「厳しく、奪うもの」というものだったそう。
仏教においては逆に暖かく、果物などがよく取れる気候の地で生まれた。
故に穏やかで、恵みを与えてくれるのが神、という考えの多神教の宗教となった。日本の神道もどちらかと言えばこのような印象だろう。ギリシアやローマの時代もこの考えに近く、日本の八百万の神のように30万近くの神様がいたそうだ。
どちらが良い悪いではなく、それぞれの場において生きるために必要な考え方が集約されていった。
後悔しない生き方
最近よく聞くのは「後悔しない生き方をする」
若いうちに海外へ行き、仕事をしてお金をため、起業して社会貢献をする、と。
そもそも「後悔しない生き方」とは?
やりたいことをやれば後悔しないのか?
スティーブ・ジョブズ
キューブラーロス
豊臣秀吉
歴史的に大成功した人たちや人の死を考えた心理学者でさえ、死ぬ間際には後悔があった。
これほどまでに大成功した人たちがいる中で、「後悔しない生き方」が「やりたいことをすべてやる」なんてことだとしたら片腹痛い。
生きるとは何か?
死ぬとは何か?
どう生きるべきか?
これに答えてくれるのが宗教である。
決して入信を勧めているわけではない。
ただ、宗教とはどういうものかをわかった上で肯定否定をすべきかと思う。
仏教で個人的に面白いと思う点はこれからブログに挙げていきたい。
・宗教ごとに価値観が変わる
・宗教はおかしなことではない。生き方を教える学び
・後悔しない生き方を考えてみよう